ロストジェネレーション

2019年07月24日


前回の≪1-ロスジェネの人生観≫からの続きとなります。

前回のリンク


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★氷河期世代の人間としての基本能力は?
では此処で就職氷河期世代の人達の人間としての人格や能力はどうなのでしょうか?

巷では就職氷河期世代において"ドロップアウト"や"引き籠り"が多い事に対して、この世代の人に対しての人間としての能力に疑問を抱く人も一定数居ます。

これに対し、「あくまでも引き籠った人の能力が劣っているからであって、就職氷河期世代だからと言って十羽一絡げにして他の世代に劣る世代の人達と見なすべきでは無い」と考えている人も居ます。

しかしブログ主は、この考えに対しても根本的に見当はずれな認識であると思っています。

例え就職氷河期世代でなくても、氷河期世代が社会進出した時期と同じ環境下で社会進出すれば、同じだけの比率で引き籠りや自殺者を出したと考えられるからです。

何故なら社会に出たばかりの新人社会人は、社会経験などは殆どありませんので起業等は出来ません。ですので社会全体で新人社会人を雇い受け入れる環境が作られていなければ、その正社員の椅子に座る事が出来ず、どうしても無職やフリーターに成ってしまいます。

平成バブル崩壊当時は、法律と社会的風潮で先駆世代の雇用状況が守られていた時期で、新社会人用の正社員の席が著しく少なくなっていた時期なのです。

その様な環境下では、正社員でなければ「社会人経験を積んだ」とは見なされ無い環境下でもあり「実力のない人物である」とのレッテルを張られてしまいます。

そして、その後も求められない人材として人生を過ごさなければ成らなかったのがロストジェネレーションなのです。


★なぜ引き籠りやニートは起業が成功しないの?
安易に起業すればよいと言う人も居ますが、起業するにしても先ずはどこかの会社で雇ってもらい経験や人脈や資金を作ると言う下準備も必要ですが、無職やフリーターではこの三点を確保する事はかなり難しくなります。

安易に経験の無い者が起業しても倒産・破産するのが関の山でしょう。

むしろ経験等を有する高齢裕福層こそが起業を行い、新社会人が経験を積みながら所得を得て新たなる起業家として社会に貢献できる人材として育てる責務があるのですが、ロストジェネレーションが社会に出た頃にそれらの社会的責務を果たすべき世代は、人口の割合が多い割には、その様な事は行われませんでした。(バブル崩壊の不況で投資や起業に及び腰だったのも原因の一つですが・・・)

無論これは戦中世代と団塊世代を指します。一応彼をの行動を弁護するとバブル崩壊による不景気と将来を見据えた不動産購入を行った人が多かったため、どうしても自己の所得を安全に確保しする必要があったため、立場の弱い新社会人(当時の就職氷河期世代)にその負担を背負わせたのだと考えられます。(そうしなければ彼らの生活やロストジェネレーションを始めとする子世代の生活も崩壊してしまいます)

また政府自体が、先に社会進出している人の雇用を守るルールを維持し続けたのと、常に労働市場を飽和状態にし、雇用の需要より人材供給が多い環境を法制度で作り上げていた事も原因だと考えられますので、全てが全て「前世代の人こそが社会人としての能力が低かったから後の世代を助ける事が出来なかった」と決めつけるべきでは無い事も重要認識として心の内に留めて置くべきだと考えられます。

なお欧米を例に出し、日本がバブル崩壊項停滞しているのを揶揄している人も居ますが、これは日本のバブル崩壊と景気対策が中途半端で、不景気から脱出できない事で貯め込まれたマネーが低金利で世界に出回った事で生じたグローバルバブルの恩寵を受けただけで、彼ら欧米人の能力が日本人に勝るからだと言うのは少し違うと思います。

特に米国では、企業家が会社を倒産させても個人の資産で会社の借金をマイナスになるまで保証する必要が無いため、負債を株主や債権者に押し付ける事が出来る構造になっており、そのシステムのおかげで起業自体が行いやすいと言う点も割り引かなければ成りません。


★問題は「世代内格差」では無く「世代間格差」だった
バブル崩壊から現代まで続く就職氷河期世代以降の世代に対する社会構造と風潮は、第二次世界大戦前の戦前世代よりも酷いか使いを受けていると言えます。

当時の人達も命を掛けさせられ戦地に送られると言う点で言えば、現代の人よりも酷い待遇であったとも言えるのですが、それでも人手として、必要な存在として求められていた事は確かですので、そこに自分達の存在意義を見出す事も出来たかと思われます。

ですが現在の「ロストジェネレーショ以降の社会から距離を置いた人たち」は、存在そのものが求められていないと解釈されても仕方の無い社会環境でも有りました。

「人手が足りないから求められている」と考える人も居るかもしれませんが、ソレは「低賃金でも働いてくれる労働力としての価値」で、結婚を行い、家庭を持ち、子を産み育てる事の出来る賃金で雇い入れないと言う環境では、人として必要なわけでは無く「機械」や「労働奴隷以下の存在」として欲しているだけで、真に人間として求められている訳では無いと見なされてしまいます。

この「"予め経験した社会人としての能力"と"法律"と"税制"によって守られた雇う側の世代」と「雇われる側の世代」の立場の落差から生じた環境により、雇われる氷河期世代を下着姿で極寒吹きすさぶ荒野に放り出し、雇う世代は若者からはぎ取った衣服を身に纏いながら暖房のガンガンに効いた温室でアイスクリームを頬張り「なぜ若者が寒がっているのか理解できていない」と言う状況を成立させてしまい、問題の解決を複雑化させてしまったのだと考えられます。

これにより当時若者だったロストジェネレーショが「寒い事は分かっているのだが、何故自分達がこの様な状況に追いやられているのかが完全には理解できていない状況」で社会人生活を開始し、その問題を解決する意思と能力が日本の社会になかった事が、問題を根深いものにした最大の原因では無いでしょうか?


★不況世代の価値と価値観
上記の問題があったとしても、バーンアウトしたロスジェネが社会経験不足からくる武器の少なさが生じている事は紛れもない事実で、この事が引き籠った人の社会復帰を更に難しいものとしている事もまた事実です。

では彼らには武器と呼べるものは有るのでしょうか?

これに関しては、有ると言えば有りますし、無いと言えば無いようにも思えます。

①能力の無さが需要を生み出す
今までは雇用市場が買い手市場でしたが、現在は少しづつ売り手市場に成りつつあります。この事からたとえ能力の無い人でさえも雇い入れ、労働力として戦力としなければ成らなくなります。

企業は長い不況で買い手市場だった過去に、労働者の賃金を抑える事で、また給与に反映されない労働を押し付ける事により、労働単価を抑え利益を確保する会社が続出しました。

これは低賃金で労働させると言う労働者への負担を押し付けにより成立した事なのですが、人手不足になればこの論理が通用しなくなるため、どうしても低賃金過重労働以外の方法で付加価値や効率化を図らなければ成らなくなります。

この事からたとえ「"引き籠り、能力を育てられなかった人"でさえも効率的に育て、付加価値の高い仕事を行わせる能力」を企業として固めなければ成らず、この能力を高める事で、労働者を低賃金で使い潰す会社としての評価を覆す事も出来る様になり、今後の人材不足時代で生き抜く企業としての能力を強化する事に繋がると考えられるのです。

これは「海外などの外部世界から過剰なまでの人員を受け入れなければ、自然に労働者需要不足で移行できるはず」です。


②真の価値を見出す
ロスジェネは就職氷河期を経験し、平均的に所得も低く、世のモノに価値を見出す事が出来ないため、限られたモノや行為に価値を見出すようになった世代とも言える。

更にその中で引き籠った人の価値観は「人が生きる上で"真に必要なモノ"を選び取る事に特化しているのでは無いか?」と考える事が出来ます。

無論、他者によって養われているような人は別ですが、自己の資産を切り崩して生きているのであれば、消費すると言う行いにシビアに成っている筈で、この様な人達に認められるサービスや商品であれば、それは購入する価値のあるモノであると言えるのでは無いでしょうか?

ただし余りにも追い詰められて、自分自身にも価値を見いだせない人だった場合、他人の命さえもゴミのように見て、その価値観の下で物事に対応する恐れも有ります。

これに関しては、彼(彼女)等にその様な価値観を抱かざるを得ない状況に追いやった社会全体の責任でもあり、これで何らかの問題を起こす恐れも有りますので、注意は必要かと考えられます。


★バーンアウトした人達が求められる状況が作られれば・・・
上記の事から「人手不足からなる所得の上昇」と「求められる事」が生ずれば、「自身は必要が無い人間」と言う認識を持った人達にとって、この上もない救いとなるのですが・・・

現在政府が行っている労働移民の受け入れが、改善の途上にある日本社会の全てを破壊する恐れも有ります。これに関しては、保守系言論人と見なされている人からもこの移民受け入れは批判されており、今現在彼らの中では急激に安倍自民党の評価が落ち始め、あからさまに自民党を信用しない風潮が生まれ始めています。

またこのような自民党の姿勢が示されている限り、引き籠った人たちは「やはり賃金も上がりそうにない、中途の雇用改善も無さそう」と考え、生きる事を諦めてしまう人も出てくるでしょう。

毎回政府は社会から見捨てられた人を助けなければ成らないと声高らかに叫びながらも、効果が限定されている政策や逆の事を行っているからバーンアウトした人達が労働市場に戻らないのです。


「君が必要だ!」(奴隷としてでは無く)


との認識を社会全体で抱き行動する事こそが、引き籠った彼らを現世呼び戻す真実の行動では無いかと考えられます。

と言っても現状の政府のやり様を見ている限り期待薄だとは思いますが・・・

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以上を持って「就職氷河期世代の人生観」を考察した記事の後編を終了しようと思います。

今回言いたかった事は、「社会環境が人を引き籠らせるに至る構造を構築しているにも拘らず、環境と意識を改善せずして問題を改善する事は出来ない」と言う事を述べているのであり、政府の行動は改善しない様な努力であるため、今後この社会環境から生じる混乱が生じても致し方ないと言う認識を国民が共有する必要が有ると言う事です。

これは日本の「地理的位置から導き出せる戦略」や「ジャパンマネーの世界への注入」と言った政策を前提とした場合に導き出せる国内環境構築から生じる被害で、これを放置している限り同シリーズで述べている引き籠った人の将来的なテロリスト化のリスクは増大するモノと考えられ、放置すれば社会全体で負債を支払う事になるかも知れません。

日本で生きている限りこのリスクから逃れる事は出来ない上に政府も信用できるものでは有りませんので、一個人が団結し努力する事でこの社会構造の不備に立ち向かわなければ成らないと考えられます。


本日は以上となります。

関連リンク
氷河期世代シリーズ

消費税シリーズ


nh01ai33 at 07:00

2019年07月22日


本日は、少し間をおいていましたが就職氷河期世代(ロストジェネレーション)シリーズで、彼ら世代の人生目的に関しての記事となります。

就職氷河期世代(ロストジェネレーション)と言えば、バブル崩壊以降から約十年間の間に社会に出た人達と定義されています。

この定義は若干不適切で、就職率がバブル崩壊後約十年の間悪化し続け約十年後頃が最悪だっただけで、それ以後少しづつ好転したため最悪の時期を過ぎ切ったと認識した社会側が最悪に至り着くまでの期間に新社会人として社会に進出した世代を就職氷河期世代と決めただけで、実際はそれ以降もバブル期景気以前の安定した居た頃に比べれば、企業側の雇用意欲は弱いものだったため、実際には世界金融危機直前までの不安定雇用期間に社会に出た人たちと考えた方が良いでしょう。

しかもその後金融危機で再び雇用情勢が落ち込んだため、就職氷河期序盤から就職や職場に恵まれなかったのであれば、20年以上の長期に渡り不遇な環境で働かざるを得なかった人たちと定義づけても良いと考えられます。

何故この世代の人達は、他の世代に比べると無職に陥ったまま社会復帰出来ない人が多くいるのでしょう。

今回はそれらの事象を「人が人として生きるために持つ夢や意欲」の視点から考察して行こうと思います。


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★人生の目標
今回の考察を行うに当たり、一番最初に定義しなくては成らない事が「人が生きる目標」です。

まず第一の目標が、「生存のための生存(自己生存)」と言う事が大選定に有ると考えられます。

これ以外の目標があったとしても、まずは自身の生存が確立されないのであれば、他の目標を果たす事自体が不可能ですし、人間だけでは無く他の生物も生存の為にあらゆる手段を尽くし生存本能を満足させてる事から、この目標が生きる上での基盤に成っていると考えられます。


生きる上での第二の目標が、「子孫を残す(子孫繁栄)」です。

無論これも人間だけでは無く、他の生物もこの論理に従って生を謳歌しており、第一の目標と連動した生存理由として上げる事が出来ます。


そして第三の目標として挙げられるのが、人間特有の生存理由と言える、「生きるためでも子孫を残すためでもない、それ以外の"夢や理想の実現(自己実現)"」です。

これは他の生物には確認できず、人間特有の生存理由となります。

この第三の理由は、第一の「自己生存」と言う生存目的と並列する形で成立はしますが、人によっては第二の目的である「子孫繁栄」とは重なる事無く成立してしまう事も有ります。


この人生目的において、「自己生存」人生目的は、第二第三の目的の基盤になり、この目的を達成できないのであれば、第二第三の目的を完遂する事は出来ません。

また逆に第二の「子孫繁栄」と第三の「自己実現」は、それを実現する過程で「自己生存」と言う目標を達成しますので、結果的に第一の目的の基盤達成を導く事になります。

そして現在ロストジェネレーションと呼ばれる人で社会復帰できない人達は、この生きる上での目標において「自己生存」は可能だが、それ以外の「子孫繁栄」と「自己実現」が成し得ない環境に追いやられた事が原因だと考えられます。



★労働目標の設置位置から労働意欲が決まる
上記の生きる目標の理由三つを、働く理由のと連動させ考えた場合、就職氷河期世代でバーンアウトした人が少子化に貢献してしまっている現状を考察する事が出来ます。

以下が労働の理由と人が生きる目標を連動させたものです。

①自己生存(生きる上での最低限の所得確保)
まず自己生存を達成する為の労働は、必要最低限生命維持を行える分の所得を稼ぐ目的で労働する事が挙げられ、これを達成するのは個々人によって難しく感じる人は居れど不可能な人はそれほどいないと考えられます。

②子孫繁栄(稼いだ余剰所得で家庭を持つ)
子孫繁栄を達成する為の労働に関しては、稼いだお金の余剰分を投入する事により、自身の人生のパートナーと共に、二人の遺伝子を受け継いだ子を残し、起こした家庭を維持するため労働を行う事が挙げられます。

これは最低限自己を保つだけの"①"とは違い、二人で最低三人分の生命維持の所得を稼がなければ成らず、そのハードルは比較に成らない程に高くなります。

③自己実現(夢や野望を実現する過程で必要なツール)
自己実現を達成する為の労働とは、自己の有している"①"と"②"に属さない何らかの実現目的を指し、本来は必ずしも労働と言う行為を経由するモノでは無い。

ただしこの場合の労働と言う行為は、その自己実現に近づくために必要な道程として労働と言う行為を介しているだけで、この自己実現と言う目標は、人によって重要度が違い、時には"①"や"②"より重要度の高いモノとして目標とする者もいる。

このため自己生存はともかく、子孫繁栄のための所得取得を度返しした労働を行う者も存在する。


★ロスジェネの労働目標
上記の定義を基に就職氷河期世代の人生において刷り込まれた大まかな価値観を労働目的に当てはめると、

"①"の自己生存に関しては、生きる上での最低限度の所得確保は変わらないと考えられる。

"②"の子孫繁栄に関しても価値観的には他の世代と変わり様が無いが「就職氷河期世代以前の世代」と「就職氷河期世代以降の世代」で違う事は、環境の違いで所得が極端に落ちた就職氷河期世代以降の世代は、この目標を達成できない人が続出したと言う事が挙げられる。

ここからが重要なのだが、では"③"の自己実現に関してはどうなるのだろうか?

彼ら就職氷河期世代は、前の親世代の人生や当時の社会風潮を見て自身の人生の目標を設定しているが、彼らの社会進出する前の時代は「"国民総中流"で、働き結婚し幸せな家庭を築く事が良い事だ」と言う風潮があったため、氷河期世代にとって"②"の子孫繁栄と"③"の自己実現が、同じ労働目標の結果得られるモノであると定義している人が多くいると言う点です。

つまりバブル崩壊による長期不況の影響で所得が確保できず、実質的に"②"の子孫繁栄が剥奪された時、同時に"③"の自己実現も実現できない状況に追いやられてしまったのである。

この状況が20年以上の長期に渡り定着したため「子孫繁栄と自己実現を達し得ないと悟った就職氷河期世代以降の低賃金労働者は、時期的に個人事の違いはあるとはいえ、目標を失った事から最後に残った目標である"①"の最低限度の自己生存の行動のみをとるようになった」と考えられる。

そして自己の生命の維持だけが目的であれば、働く時間を減らし、食を減らし、行動しない事で効率化を図り、より低コストで達成する事が出来るため、資産をある程度蓄えた人などは、労働市場から撤退し、引きこ籠ってしまったと考える事が出来る。

これが就職氷河期世代で引き籠りが多くなってしまった理由では無いのでしょうか?


★前世代の罪業
前述の事から、就職氷河期世代において引き籠りが多くなった原因は、確かに本人たちの目標設定不足から出た問題でも有ると思われるのですが、それ以上に目標を人生目標を破壊し自己の都合により「"自己の生存だけしか成し得ない社会環境"を作った前世代の人の責任」を無視する事は出来ません。

特に団塊の世代は、更にその親世代である戦前世代が人をゴミの様に使い潰す社会にしない様に努力した結果の社会と教育を継承したにも拘らず、実力主義と言う名文句を盾に「先に社会に出て経験を積んだ人が優位に立ち、後発世代を使い潰しても、圧倒的数の優位で言論を封殺できる社会」の維持を行ってしまい、現状の社会構築に一役買ってしまった。

本来人間の生において世代ごとの役割は、先に社会進出している世代が人生の生きる意味を己の行動を持って体現する事で、後発世代を導く事をしなければならず、この連鎖が人の営みを作ってきたと言えます。

ですがバブル崩壊以後に日本において、夢や希望を与え人の進み道を示さなければ成らない先駆世代は、その勤めを全うできず自己の生活を確保するための資産維持と所得確保の負担を、後発世代に労働賃金低下と労働環境劣悪化に追いやる事で実現してしまった。

この最低限子孫を残すための社会環境さえ残さなかった事が、就職氷河期世代以降の人達に自己の生存確保だけの行動に追いやってしまい、結果子孫を残せない環境下から引き籠り増大や少子高齢社会の扉を開いてしまった。

この前世代が作り上げた社会に対しての幻滅こそが、「引きこもり、少子化、高齢化」の最大の原因であると考えられる。

自分達の国民総中流と言う理想を提示したにもかかわらず、後の世代にその理想を実現できない環境を押し付けたのは、非常に悪質なマッチポンプと言えます。(自覚は無いでしょうが・・・)


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以上が「就職氷河期世代の人生観」の前編となります。今回は記事が長いため続きは次回となります。


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nh01ai33 at 07:00

2019年06月05日

前回からの続き物となります。


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★正当化しても良い慣習国際法の事後法
前回の考察で道義に反した法整備等を行い、特定の国民に損害を与え生存権を侵害した政治家や官僚は、慣習国際法の概念に照らし合わせて裁くべきであると述べましたが、これに対して事後法になるためその様な事を行うべきでは無いと考える人も居るかもしれません。

ですが慣習国際法と言うモノは、法典の文章に書かれていなくても人間であれば守って当然の概念を指しており、本来は条文化される様なものでは有りません。

そのため条文化されてない事を盾に、道徳的に違法な行為を行う者もおり、近代に入り悪用を避けるために条文化されただけなのです。そのため事後法も適応されず、唯一遡って裁く事が問題無い事にされた概念なのです。

この事から慣習国際法視点での悪行であれば、過去に遡ってでも裁く事も可能であり、時効と言う概念も存在しません。あくまでも「道義的に犯罪的行為を行い他者に対して損害を与えた者」と「損害を与えられた者」の和解と償いによってのみ解決されたと見なされる事なのです。

個人であればその個人が裁かれ、国家であれば国民は裁かれませんが原因になった政府が、また後継の政府が責任を持って謝罪と賠償を行います。

基本的に当事者や当事国同士で解決され、それ以外の「個人であれば血縁」や「国家であれば関与していない国民」には、賠償責任は負わされても犯罪者としてのレッテルを張る事は行われません。

この事からあくまでも「何もされていないにも拘らず一方的に犯罪行為を行い、他者に対して損害を与えた"個人"」に罪を償わせる事が必要なのであって、犯罪行為を行った本人以外の血縁等には、その罪は連座させない様にする事は必要なしょちとなります。

ただし例外が有り、犯した罪によって得た利益を同じように享受した場合は、得た利益を返済する義務が生じます。

例え一銭も保有していなくても、教育と言う形で資産譲渡を受け持続的に豊かな富を生み出す資本形成をして居た場合、そして自身や自身の家族が生きる以上の富を稼げる場合は、その余力分を返済に充て解決を謀らなくては成りません。

今や資産と言うモノは、形に残る者だけでは無く、知恵などの目に見えない形で残す事も出来ます。そのため犯罪行為で得た富を、自身の後継者に形に残らない形で残し、お目溢しを得よう等と図るモノが出ない様にするための処置が必要であると考えられるのです。


★正義の法と武力による解放
もう一つ考えねばならない事が、テロ等による武力を伴った報復や改革は正当化されるのかと言う点です。

人間と言う生き物は「物理現象によって構築された自然の循環環境において、知恵と団結を武器に社会分業体制と言う生き方で生存権と安全保障を確立しました。その社会体制を破壊しない様にするため抱かざるを得なかった仁義道徳の概念こそが、物理現象に即した法則であり、これら地域やライフスタイルを超えて文化文明を構築して生きる人々が共通的に持つ道徳観こそが正義の法(失われないモノ)である」と言えるモノなのです。

そして武力に訴えると言う行為は、一見苛烈で現在の日本の法律に違反している様に思えますが、生存権の確保と言う観点で見た場合、不公正な法律で意図的に特定の者たちにだけ生存権侵害を行う行為は、「生物として生きる権利」を政府の先制攻撃で剥奪した事を意味し、この明確に仁義道徳に背く悪行は、人が人として生きる上で戦いを自然法である生存権と報復権の観点から正当化できてしまう事になります。


・就職氷河期世代のテロリズムリスク

上記の事から当ブログで述べた「氷河期世代はテロ予備軍に成ってしまうのか?」での考察を軸に考えると、

日本政府は国家の法律と言う視点から「氷河期世代を追い詰める様な行動を他の世代に行わせる事」を行いましたが、慣習国際法的な善悪の視点で見た場合、国家権力を利用して特定世代に過剰な負担を押し付ける行いは、明らかに"悪"に属する政策で、これに対して法的に問題無いと言う価値観で文句を言わず、武力に訴えてでも自己の生きる権利に対して命を掛けた行動を行わないのであれば、その悪行を正しいと言っている様なモノであり悪法の容認となるのです。


「人間が生物界で生きる上での個とコミュニティの保全」と言う観点で日本国政府の行いを見た場合、民主主義施政下の社会で法権力によって構築した「富の循環構造」と「風潮の操作」で、一部の世代の一部の人達により重い負担を強い、社会や国家を統御する法制度を悪用し、それ以外の大多数の人達の支持を取り付け、被害者の言論と不満を大多数の中で埋もれさせ表に出さない行為は、社会と言うコミュニティを作り生きる社会的生物の倫理に反しています。

政府の行っている行為が、この生きる上での物理法則の影響下で自然発生的に抱かざるを無かった倫理に反しているのであれば、自然法における生存権を基準にした「武力・言論等の人道に反しない範囲での、あらゆる手段を利用し生存権を確保する反撃行為」が正当化さてしまいます。

自然法や慣習国際法(仁義道徳)の観点では、先に悪行を行った者に対して反撃する権利を有しており、これに関しては、先に悪的な手段で先制攻撃を仕掛けた者に責任が帰される事になるため、日本政府が行っている計画的な戦略政策による被害者が、その「政策を実行した者」と「支持し利益を取得している人」に対して、「政策による生存権の破壊行為がされている現状を、民主主義体制で改革不可能であるのならば」、倫理面に反しない形での武力行使も正当な行いであると認識できてしまうのです。

これらは国民からの憎悪の炎で身を焼き焦がされ滅びる事も、「法律では無く法則による法治主義」の内にあるシステムと考えられます。

関連リンク


★公務員は責務を果たしているのか
上記の事は、政府・政治家・官僚が行った行為の悪質性から発生する諸問題の考察ですが、それ以外の体制維持に貢献し、被害拡大に貢献している公務員の方たちには、どの様な責任が発生しているのでしょうか?

法律を提案し作るのは、国民の意見を聞いたふりをしている政府の仕事ですが、その法律を運用し実際実行するのは公務員となります。彼らは「一応国民の事を考えて作られた法律」をどの様に運用し、国民が安全に暮らしていけるように努力しているのでしょうか?

それらの法律の運用下で、労働者の人々は安定した労働環境で働けているのでしょうか?


「労働者が安心して働ける現場を用意しているのか?」「雇用側が労働者に対して非人道的な働かせ方を行って居た場合、その行為に対して改善を促せることが出来るのか?」等の要件を公務員は行っているのか?

バブル崩壊以後よりその様な問題が提起されているにも拘らず、また一般の労働者よりも雇用と所得で安定性が有るにも拘らず、被害を負わせている雇用側を監視・制裁できる様なシステムを構築していない点に関しては、「現状公務員は自身の所得と雇用さえ守れれば労働者を守れなくても良い」と考えていると見なされても仕方がありません。

「法律で規定されているでは無いか?」と思われる方も居るかもしれませんが、

「法律が制定されているのか」と言う事と、

「その法律が理に適った事であるのか」と言う事と、

「理に適った法律が運用されているのか」と言う事は全く別問題で、

現状の労働者を見た場合、自己満足で法律を制定し運用し、労働者を守っている気分に浸っているだけで、実際は何ら労働者を守っていない事になります。

例えば監査一つとっても、「抜き打ちで行う場合」と「宣言して行う場合」があるようですが、「秘密裏に潜入させて行う」と言った行為はなかなか行っていません。もし宣言して行った場合、本当にあくどい事を行っている組織であれば対応策を取って逃れる恐れもあり、監査と言う行為自体に意味が無くなります。

抜き打ちで監査するか、若しくは予め全ての企業に監査員を送り込み、本当に企業側が倫理道徳面において組織運用を行っているかどうかの監視を行わなくては、この問題は解決しないと考えられます。

現在の公務員制度ではそれらの監視制度が整備されてないため、最初から労働者を守る意思が存在しない事になります。


これは憲法の

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第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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に真っ向から反していると考えられます。

重ねて言わせてもらうが、法律を文字に起こし制定している事で問題が解決する訳では無く、「法律が理に適っているのか?」「その法律が守られているのかが監視されているのか?」「違反者に制裁が有り、反道徳行為が行われない環境が構築されているのか?」が重要で、監視と行動が伴わなければ、法律違反が行われていても、罰せられなければ行いを改めず、悪行を行っているとも認識せず、そのため被害当事者が気付かずに被害に遭っている現状を解決する事は出来ないと考えられます。

日本の行政は、自分達が監視したい事に関しては監視するが、それ以外の多くの民草が被害に遭っている案件が有っても、興味が無ければ監視する事はしない。

法律さえ制定して置けば、性善説に沿って犯罪は行われないと言う名目を前提に、努力を放棄していると見なさざるを得ません。

とは言っても彼らは、政府や官僚の作った枠組みで働いているだけですので、知らないうちに加担させられているだけとも考えられ、その様な人達がもしテロの対象として巻き込まれたのならば、ご愁傷様ですとしか言いようが有りません。


★「報復されたがっている」のかもしれない政府と官僚とマスメディア
これは以前にも少し述べましたが、もしかしたら政府・官僚・マスメディアと言った各種勢力が、日本の生存戦略の下で特定世代以降の人達に経済的に過剰負担を着せ人生に絶望させる環境構築をしているのは、生存戦略だけでは無く自分達もが恨みを買う事によって社会改革を促す目的があって行っている可能性も十分あるのでは無いかと考えられます。

当ブログでは日本が国家体制を混乱させ新体制に移行する時、それらの混乱さえも計算の上で行っている可能性を考察していますが、現代の特定世代の人達に対する不公正制度や、そこから生じる社会的混乱や被害もある程度は予測の範囲で行っている可能性が有り、歴史的に見てそれら社会の変わり目では「幕末」や「敗戦」の例にもある様に、既存の体制を支えていた政府・官僚や利益を得ていた人達の悉くが、粛清されたり富を失ったりして、旧体制で不公正な制度下で不遇に追いやられていた人達の留飲を下げ、それ以上の報復の連鎖に発展しない結果を実現化させています。

別に自己を犠牲にして目的を達成するのは構わないのですが、自己満足的に行いソレに巻き込まれる国民はいい迷惑ですので、政府主導で報復包囲を誘発するに値する行いを行ったのであれば、報復され報復し返さない事で、報復の連鎖に突入しない社会情勢を構築して頂きたいものです。

この事から最も特権の下で利益を得ていた人達に関しては、どれだけ被害に遭おうともテロリズムを生み出す環境を意識せずとも結託して作り上げたのだから、必ずしも他人事と言い切る事は出来ないため同情する事は出来ません。


一番理解できないのがマスメディアで、マスメディアに関しては政府と対立しているフリをしながらも、減税処置や電波利権で利益を得ており、日本の地政学戦略を補助するかのような情報発信ばかりを行っています。

また国民と同じ負担を被っているとは言えず、ここまであからさまに国家戦略目的の政策に加担していると、「国民を自殺に追いやる事に努力しているので、ぜひ報復してくれ」と言っている様なモノで、命が必要ないから行っているとしか思えず、ブログ主としては彼らの正気を疑わざるを得ません。


関連リンク
・地理と歴史と資本の流れで見る日本の戦略まとめ

・戦後を見据えた日本の布石
 ≪-2地政学で見る投資と敗北-

・国家戦略を行うに当たり日本は犯罪をしているのか?
 -2-幕末~第二次世界大戦
 -3-第二次世界大戦の戦時~敗戦
 -4-敗戦以降と極東裁判

イデオロギーシリーズ
 -4-西側陣営の政策を地政学で考察する
 -5-イデオロギー変化は循環の制御である


・地政学で見る政党
 1-日本に二大政党制は必要なのか?
 2-地政学で考える政党勢力


・戦略における勝利と敗北
 ①勝ってはいけない
 ②負けた方が歴史を動かす


・戦争と平和の幸福と不幸
 -1-戦争と平和の循環構造
 -2-平時の不幸、戦時の幸福


★最終的に言えるのは・・・
もし法律等に生存権を侵され社会に報復する行動をとらせた場合、その様なテロリズム等の現象に至ったのであれば「自分達が知覚してないだけで、その様な現象が起こるに至る法律をを適応させていた」と見なさなくては成りません。

そのため如何なる目的が有ろうとも、それによって生じた被害の責任は政府に掛かってしまい、その罪を償う為の粛清からは避けられないものと考えられます。

この事から政治家や官僚と言うモノは心底割に合わない仕事だ思えてしまいます。だからと言って天下り等で大金をせしめて、自己の権益のために多くの人を不幸に追いやった場合、その罪から同情を受ける事は出来ません。

日本の生存戦略を推進し他人の不幸と引き換えに利益を得ている人達は、いざと言う時の為のダメージコントールを放棄しているように思えます。

これが「一罰百戒の為の見せしめに成ろうと言う殉国の精神」から出た行動なのか、それとも「ただ他者を食い物にしてでも利益を確保したい」がための行動なのか判断に苦しむところです。

ブログ主はあくまでも環境と環境下から推察できる政策を基に、彼らの行動と内心を予測しているだけですので、本当の処、彼ら政治家や官僚やマスメディアがどの様な思惑で行動しているのかは、彼のみが知るところとなります。


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以上で、前回の「「悪法も法」論理は道義的に無理」とそれに続く今回の「解放のための武力行使」の全二回の考察はこれにて終了となります。

当ブログでの考察は、あくまでもブログ主個人の見解を書いているだけですので、もしかしたら間違い等が有るかも知れません。それらのリスクを理解の上で閲覧してください。

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nh01ai33 at 08:00

2019年06月03日

本日は「法治とは何なのか?」に関しての考察となります。

悪法も法と言う言い訳の下で、政治家官僚等の国政に影響を与える事の出来る人達が、その権力を利用して民にの生存圏に損害を与える行為が許されるのか、に関して考えて行きたいと思います。

とは言っても結論は既にでており、いかなる理由によるものであっても、例え国家の存亡に関する事であっても「法制度の制定を行える権限を利用した上での、一部の国民の意思を無視しての生存権を侵害行為は許される事では無い」というのがブログ主の考えとなります。

ここで重要なのは「一部の人に対して」であり、「その様な人達の意見を無視して、その人の生存権を侵害しない」と言う点です。

これは国家における"法治"と言うモノの本質を理解すれば分かる事です。

古来から「悪法も法」と言う言葉が有ると言われており、人に損害を与える法律であっても法律として存在している以上、その法律を遵守する必要がある事を述べたモノとして知られています。

これは「古代のギリシャの哲学者が述べた事だ」と言う噂が実しやかに流れていますが、本当のところがどうなのかはブログ主には分かりません。

ただ言える事は、悪法、特に「人道的に悪に属する法は基本的に守る必要は無く、もしその悪法によって利益を得ている者がいた場合、これを過去に遡ってでも罰するべきである」とブログ主は考えてい有ます。

むしろ人道的に悪法である事をと理解しながらも、それを守り、適応させ、実行し、利益を得て、特定の人に損害を与え生存権を著しく毀損させた場合、実行者と制定者と受益者らは必ずを裁かなければ、"法治"の真の擁護者になる事は出来ないと考えられます。


★法治の真の意味とは
法治と言う意味に関して、多くの人が間違えて覚えている事が有ります。

それは「法律によって国家」を統治すると言う意味では無く、この世界を構築する法則に沿った生き方を行い、異なる文化や地域を超えて有するであろう人間社会全てで通用する節理を守って統治すると言う事であって、盲目的に法典に書かれている法律文を守る事ではありません。

これは法律では無く、物理法則から見出せる生き方や社会の慣習から「発見された法」によって統治する事で、当ブログで述べている「法則の影響を受けそうせざるを得ない行動や対処」を述べており、これを守らず「文書にまとめたから守らなくてはならない」と盲従する事は、法治に反すると考えられるのです。


★「国家の存亡」と「国家戦略」と「利益の受益者」
上記の「発見された法による統治」を行うに当たり、時には国民の生存権を侵害する形で法律を適応させねばならない場合も有ります。

即ち、国家存亡の危機や生存戦略を前提とした国策を推進する時です。

この時ばかりはコミュニティ全体を守らなくてはならないため、国民全体で負担を分かち合わなくては成らず、負担を分かち合う政策を行った時に被害を被る人が出る事は致し方ありません。

ですがこの場合も「国家の為」と言う名分の下で行うのであれば、生じる負担を国民全体で分かち合い、個々人の能力や立場によっては負担率が均等になる様に分散させなくてはならないと考えられます。

代表例を挙げれば、「戦時における徴兵(徴用含む)やなど」がこれに当たり、世界大戦時に日本や各国、冷戦期の米国がこれに当たります。中には莫大なお金を支払いその負担から逃れようとする者もいますが、批判されたり、その分の税負担を強いられたりと、必ずしも社会的経済的な負担が無いわけでは無かったようです。

ただし悪質な場合、法権力を利用し、負担を被らずに、自己の負担を他者に押し付ける政治中枢に関わる者もおり、その場合は「他者に負担を押し付け自己の利益を確定させた"法権力の悪用"」に当たり、金で負担軽減割合を買う行為を行った者以上に、比較に成らない程の悪質性が生じる事になります。

何故この様な事が起きてしまうのかと言うと、国家戦略前提とした政策を行うに当たり、自国だけで物事を決定できるわけでは無い事が根本原因として挙げられるからです。


国家の政策を行うに当たり、他国の存在は非常に重要な要素となります。

自国が潜在的に脅威になる隣国に対して、対応する為にこれらの政策を行うと明言し行ったとしても、その様な明言を行う事自体が対応策を取られる原因にも成り兼ねません。

そのため国家が隣国を意識した政策を行う場合、その戦略を国民に分かるように説明した場合、潜在的な敵国に対しての戦略的サプライズ(度肝を抜く奇襲)が成立させる事が出来ず、対抗策とたてられ政策が無意味になる恐れが生じてしまいます。

そのため国家戦略を意識した政策を行う政権側の人間は、潜在的な敵国と国民の期待を裏切る形で政策を推進しなければ成らず、その真意を隠したまま政策を推進する事になるのです。

その様な真意を言えない政策を推進した場合、その真意を理解し、国民が理解していない状況を利用し、ソレによって作られた構造を利用し利益を得るモノが出てきてしまうのです。

民間がその様な事を行い、他者に負担を押し付け利益の確定させたとしても、一応は民間の自由意思により環境を利用し利益を追求しただけに当たり、人道的側面での批判は有ったとしても、生き残るために適応しただけと言う言い分は通用すると考えられますが、

政府や官僚側の権力者側が、自身の法律の制定者側である立場を利用して、他者に負担だけを押し付け利益を追求すれば、そして政策によって直接的または間接的(迂回的)に負担を他者に押し付けたり、または利益を供給すれば、国家の為では無く自身の為に行った政策であると見なされ、国家のために政策を推進したと言う大義は無くなり、あくまでも個人の利益の為に行った事であると言う事実が作られてしまいます。

他者を不幸にする事で得た富であるのならば、如何なる誠意を持った行動であったとしても、その精神は地の底に落ちたものとして見られるでしょう。


国家の推進する政策で生じる負担は、国民が自己の能力の耐えれる負担を被り、国民全員に依存や堕落を起こさない程度に還元されるものでなくては成りません。

最初で述べた「一部の人が負担を被り、負担を被った人の生存権を侵害され、他の人が利益を受け取る構造」が法整備によってなされたモノであるのならば、コミュニティの維持と言う点からも、民主主義の観点からも、正に悪法となります。ましてや政治主導の政策で行っているのでしたら、悪政と呼んでも差し支えないと考えられます。

これがバブル崩壊以降の日本で行われ、就職氷河期世代以降の世代が押し付けられた悪政による負担被害の正しい善悪認識として考えられる考察となります。

関連リンク


★性善説前提での法整備の意図的な不備
当ブログでは、「日本は国家戦略で、周辺諸国を争わせ軍拡バブルを巻き起こす戦略を採用している」と述べてきました。

それらのバブルを支える資金捻出を行う為とは言え、国民に低賃金化労働を強いるため企業側に雇い主としての立場を盾に「労働者との合意が有れば低賃金で働かせても奴隷労働させても罪にならないガイドライン」を提示や、その結果低賃金奴隷労働が幅を利かせても、法を悪用した雇用者側に問題があると言う論法で法律を作った側の責任を有耶無耶に成ってしまう現状がその考察の前提に有ります。

これは人の善性を信用し、「人は善性を発揮しその様な行動を行うに違いない」と言うフリをして行った悪法整備となります。

この就職氷河期周辺世代に家庭を持てない様な低賃金労働を強いた事は悪行では無いと言うのならば、そして政府も人の善性を信じ性善説前提の法整備を行っているのであれば、本来はいかなる凶悪犯罪も起こりえないはずである。

しかし現実問題として凶悪犯罪等が起これば、犯罪者は裁かれるし牢屋に入れられる。この事から政府自身も性善説などは最初から信じていない事は理解確信しており、それでも尚「性善説を信じたフリをして、性善説を前提として法整備を行っているのは、それら性善説を前提として法の抜け穴を突き道徳的に問題のある悪行を誘発させようと言う意図で行っている」と考えるべきでは無いでしょうか?


★政治家や官僚を裁くべきなのか?
ブログ主は、政治家が自身が儲けるために法律を制定しても「悪い事は悪いと断じ、裁かなければ成らない」と言う認識を有しています。

これは以前から「殺人等の反道義的行為を"法律"で罪業として定義しなくても、社会で生きる上では守らなくてはならない道徳概念が存在する」と述べている通り、人間が社会で生きる上では、法律に規定されていない事でも守らなくてはならない事があり、その道徳を守らなくては社会が健全に営まれない事は、多くの人が本能的に理解している事でも有ります。

ソレを無視し自己の欲望の赴くままに反道義的行為を行えば、怒りや憎しみの感情を抱かれ、報復の連鎖を生むことになります。


人が法典に定められていない社会ルールを認識し守る事で、自信が所属するコミュニティで生きる生物である以上、法律を作る側もそれに準じた法制定を行わなければ成らず、これを無視し自分だけは反社会的な行為を行っても罪にならない様な法律を制定すれば、自ずと道義的問題が生じ人間関係や社会が破綻するのは必定なのです。

だからこそ政治家等の法の制定と執行を行う側は、自己や自己を支持した人だけに利益の還流が流れ込む方を作るのでは無く、利益が社会全体に行き渡り社会構造が淀みなく動く様な法律を制定する必要があるのだと考えられます。

これを無視して権力者としての力の論理で、悪法を民衆に押し付ければ、不満を持つ人たちに暴力で政府を転覆させるリスクが生じる事になります。何を行っても法律で犯罪行為で無い事に仕立て上げれば、権力を勝ち取りさえすれば、

後に自分達が作る権力構造内で、過去に行った自分達の反権力運動を罪で無かった事に仕立て上げ、自分達は犯罪者では無いと言う事に出来てしまいます。

この様な行為がまかり通れば、暴力を伴った自己自益の確立を促してしまい、人類の社会的共同体を転覆によって再構築すると言う行為が問題無い事になってしまい、何度でも同じ事が起こり、社会が安定しない様になります。

この事から「法律を制定する事によって成立した政治家や官僚の犯罪は、国家の法律によってでは無く、"世界の法則から発見された法"によって裁かれるべきものである」と考える事が出来る。


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今回の記事は長くなりますので一応これにて終了ですが、残りの部分に関しては、題名は変わりますが実質上の前後編の後編として次回に続きます。

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nh01ai33 at 08:00

2019年04月29日


前回の続きです。

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③企業の強い立場と政府の害ドライン
上記の「経済環境構築」と「社会風潮」に加えもう一つ問題なのが、政府が雇用者側に守らせている穴だらけの雇用契約で、労働者に対する働かせ方や残業等の項目で、どうとでも解釈可能な契約を結ぶ事によって、労働者の低賃金での超過労働による疲弊が生じる事と成った。

これは、バブル崩壊の不景気下で労働者が雇用の需要より多いために、雇用者側が労働者よりも圧倒的に強い立場で無理な要求を行える環境だったため、労働者側が解雇されない様に忖度しなければ成らなかった。

これによって政府が提示した雇用の為のガイドラインが、労働者を不必要なまでに追い詰め使い潰す事を可能とする解釈が成立するモノだったため、企業側がこれを悪用したり、労働者側が忖度して潰れてしまったりして、多くの社会問題を誘発させるものとなった。


・労働者の「サービス残業」「みなし残業」
雇用契約で最も問題となったのが残業問題である。この問題は現在でも取り上がられているが、サービス残業は、企業側が残業代を支払わずに労働者に時間外や休日まで働かせる行為で、みなし残業はそのサービスが問題視された事によって適応される事になったルールである。

みなし残業に関しては、予め給料の内に残業代が入っていると言う名目で雇用契約を終結するが、これは業務時間内で仕事を終結させれずに延長して仕事してもらう事が多くなると、残業代計算が煩雑となるため、予め平均残業を分を給与に反映させて置く制度と考えられるが、会社によっては最初から100人中100人が予め設定されていた業務時間内に仕事を終了させれない様な、過重労働を押し付ける事によって、申し訳程度の見なし残業代金を支払い、超過勤務状況を正当化し、実質上の低賃金労働をさせる運用を行う企業も出てしまった。

何方にしても政府が政策によって、雇用需要より労働希望者の人数を多くなる状況構築を行い、これによって雇用側の労働者に対する立場の強化が成立したため、労働者側にっとっては「解雇を避けるために身を切った奉仕を行わなくては首を斬られて路頭に迷う」と言うリスクを前提に置いた働き方をしなくてはならない事から生じた問題で、政府がこの環境維持を行い続ける限りにおいて、同じ事が何度も起こる可能性が有る。

また「国会討論の野党による問題提起」や「マスメディアで連日雇用側の労働者に対して不当に安い賃金設定で長期に渡り働かせる問題」を提起されれば、企業側にその意図が無くても、解雇を避けたいと願う労働者側が、精神が病み体が壊れるまで無理して仕事を行ってしまう様になり、また企業側も率先してその様に働いてくれるのならと放置し、最終的に労働者側が生命の危機を覚え退職を決意するまで続く事になる。


・雇用側の立場が強ければ、労働者は忖度する
上記の問題は、仕事を求める労働者よりも雇用側の需要が少なかったために、企業側の立場の強化が起こり、これによって生じた「いつ首を斬られるか分からないので、出来る限り企業の命令には従う」と言う労働者側の立場の弱みに付け込んだ契約を結果的に企業側が行い、その自覚が無いために多くの労働者が病み疲弊し労働市場から脱落する事と成った。

ただしこれらの問題に関しては、氷河期世代だけの問題では無く、労働者全体に降りかかった、企業側のモラル欠如の問題でもあった。


④婚姻と社会に対する認識
最後に重要なのが「氷河期世代の男性と女性の意識」と「その親の世代の意識」と「当時の社会に蔓延した結婚と結婚後の生活に関しての認識」に関してです。

これら「氷河期世代とその親世代の結婚に関しての認識」と「マスメディアによって作られた結婚と言うモノ」と「実際の経済的な現状」が乖離していたため、団塊世代の男性が結婚に対して積極的になれず、ソレに影響される形で女性もあぶれてしまったと言うのが、婚姻率が下がり少子化に陥った理由の一つと考えられます。


・親世代の結婚(団塊の世代)
まず第一に考えなくてはならないのが、氷河期世代の親世代に当たる、団塊の世代やその前後世代の人達の結婚に関しての意識です。(と言ってもあくまでも平均化された価値観で会って全員がそうだと言えるわけでは有りませんので注意してください)

彼らの世代は戦争が終わるか否かの時代から戦争が終了し10年以内頃までに生まれた人たちで、彼らが生きて来た時代は、基本的に高度経済成長真っ只中だで日本全体が右肩上がりの成長を遂げていた時代でした。またこの頃の労働環境は、環境はともかく雇用は安定していたため余程の事が無い限り引く手あまたで就職に困る事も無かったはずです。

そして基本的に職場における男女の区別がまかり取っていた時代でもありましたので、女性が職場で働くと言う事も社会的な風潮で制限されていました。そのため多くの女性が結婚する前まで働き寿退社と言う形で社会から遠ざかり、代わりに男性がその分働くと言う慣習が有りました。この風習により退社した女性の分まで男性が働き稼ぎを賄うと言う風潮が生まれ、このせいで"男性は結婚後は女性を養う"と言う暗黙の了解が出来上がりました。


・バブル期当時の社会の結婚問うモノ
そして氷河期世代の人々が結婚と言うモノに対する認識を確立させるに影響を与えたのが、彼らが少年期から社会に出るまでの間に「社会から提供された結婚とその後の生活に関しての情報」である。

これは「親世代の認識」や「当時の社会情勢で結婚した人がどの様に暮らしていたのかの事実」更には「マスメディアによって作られていた男女間の異性への認識」がソレに当たります。

氷河期世代前後の人達は正にバブル絶頂期とその残り火が燃え続ける時代に多感な時期を過ごしており、その時期に、「男はよく働き、景気良く金を稼ぎ(稼げない奴はゴミ)」、「女性は男に貢がせ」、「女性は社会進出が著しく」、日本全体が消費を拡大させていました。

この社会的な状況によって、彼らの世代は男女間の結婚と言うモノに、男性は「女性はお金を浪費する存在」、女性は「男性は所得を稼ぐ存在」と言う認識を植え付けられてしまいました。(ブログ主の見解です)

特に最大のイベントと言える結婚式にコストが掛かる事もその一因と考えられる。


・氷河期世代の結婚と共同生活への意識
しかし現実に彼ら彼女らが社会進出した時期はどうなったでしょう?

「氷河期世代」や「ロストジェネレーション(失われた世代)」と呼ばれるほど、就職には恵まれない、最悪の雇用状況の時代に社会に進出させられ、その後も労働者として低賃金で人によっては運悪く体が壊れ精神が病むまで酷使されるような労働環境で働かなくてはならない人が続出してしまい、特に男性は結婚して安定した生活を営むだけの所得を稼げない人が多く出現してしまいました。

ここに来て氷河期世代の男女ともに「自身の抱いている結婚と言うものに、自身の稼いだ所得では実現できない現状がある」と言う事に気づいてしまったのです。

特に氷河期世代の男性にその認識が顕著に表れていたと考えられます。

彼らの認識は「親世代の様にパートナーは働かず、男性の所得だけで子供と妻を一生養い労働させない」と言うモノで、更にそこに上がらぬ給与と安定しない雇用と言う材料が加わるのです。この様な認識下では結婚と言う行為は行いたくても行えません。

何故なら結婚し子供を産んでも安定して所得を稼げない状況に追いやられら妻はおろか子供諸共路頭に迷いこんでしまうからです。これは「自己の遺伝子を後世に残す」と言う生物の本能を満たす事が出来無い事を意味しており、この事から一家で全滅する恐れがあるのならば、家庭を持つ負担は被らないと言う判断をしても責められるべき事では有りません。

更に問題なのが親世代で、この親世代も氷河期世代と同じ「夫が妻を養う」と言う認識を有しているため、氷河期世代の男性から見れば「養えない様な所得で、娘さんをください」とは言えないため、その事を気にし最初から結婚と言う行為そのものを諦めてしまう男性が続出したと考えられます。


・「養う」と言う認識に秘められて世代による世界観の乖離
氷河期世代の上記の認識を補強するのに影響を与えたのが、その前世代の人が行っていたバブル期の価値観と行動かと考えられます。

散々浪費し、不動産で土地転がしを行い、ご乱行の限りを尽くしていたバブル期の暮らしぶりの情報の悉くを刷り込まれれば、それらを見て育った氷河期世代は、世間や結婚はそれだけ金がかかるモノであると言う認識を持つには十分かと思われます。

これら高度成長期からバブル期に形成された社会風潮によって、男性は「所得が低い自分を女性やその親御さんが認めないのでは無いかと言う認識」を持ち、同時に氷河期世代の女性は、男性から「お金がかかる養えない生物」として見られていると言う不幸が生じ他たのでは無いでしょうか?


★「真面目過ぎる男性」と「被害を受ける女性」
上記の諸々の理由から結婚せず子供を作らない人は、あくまでも経済的な事情と、将来的に養わなくてはならない家族の為の事を考え、自分ではその責任を果たせない事から生じる責任感から結婚と言う行為を選んでいないだけで、本心から子供をも欲していないわけでは無いと考えられる。

逆に言えば、結婚相手や生まれてくる子供を路頭に迷わせたくないからこそ結婚しないのであって、所得さえ何とかなれば幾らでも結婚を行うと考えられる。

これら経済状況と社会的な風潮の双方から推察できる男性の思考と行動は、文明社会と言うモノを作り生存している人間と言う生き物としては、決しておかしな行動では無いが、この思考と行動によって被害を受けているのは、むしろ同世代の女性である。

社会的な風潮によって昔ほど格差が無くなったとは言え、それでも企業から見た場合、女性を雇用する負担より男性を雇用する負担の方が小さくて済むため、男性優位で雇用が進む業界もいまだに多い。

その状況で男性が「女性を養う("負担を分かち合う"と言う認識も含む)」を放棄したため、その庇護下で生きれない女性が割を食う羽目に成り、同世代の低賃金労働の男性よりも、女性の方が明らかに暮らし難い世の中に成ってしまったのである。


★近年の若者の結婚に対する認識
近年の若者は、子供の頃から不況の時代が続き、多くの労働者が低賃金労働に追いやられ不遇な境遇を味わった事を知っている。

このため男女共に共働きで家庭を支えなければ成らない事を理解している事から、氷河期世代以前の様な「男性が女性と子供の面倒を見なければ成らないと言う意味での"養う"」から、「男女共に働き支え合う事によって捻出できたリソースを子供の出産や養育に注ぎ込む」と言う意味での"養う"と言う認識に移行しており、この事から前世代の人達の様な「負担を被りたくないから、相手の親御さんに低所得を責められたくないから結婚はしない」と言う意味での婚活拒否者は少なくなっていると思われる。

これは不況が長期化し今後も高度経済成長の様な好状況が見込めず、男女ともにワガママばかりを言っていると「負担の掛かる相手」と言うレッテルを張られ、夫婦生活喉成り立たなくなる事を理解したために自然発生的に生じた価値観で、この「寄生されたくない。ともに家庭を守る」と言う価値の共有こそが、互いに互いを支え合う「結婚」と言う行為であると言え、ここに来ようやく高度経済成長とバブル経済の負の呪縛から逃れる事が出来たのだと言える。



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以上を持って「氷河期世代はなぜ結婚をしないのか?」の考察を終了させてもらいます。

今回の考察を読んで考え過ぎたと考える人も居ると思いますが、これはブログ主だけでは無く多くの言論人が述べている事ですが、人間にとって社会に出た時の経済状況や体験と言うモノは、その後の人生観に影響を与える大切な外部情報だと思っています。


「一度しかない人生なのだから、思い切って結婚したら?」と考える、景気の良い時に社会に出て、失敗しても再チャレンジできる環境で生きて来た人が居れば、

一度でも失敗したらレッテル貼りされる環境で生かされたため「一度か無い人生だから、寄生されて人生を台無しにしたくない!」と考える人もいます。

そして当時の若者にその様な価値観を抱く要因に成ったのが「自分のライフスタイルを守るために、人が人を信用できなくなる世の中を作り出してしまった、前時代の人の価値観と自己の生存行動」と、この一点に尽きると考えられます。

本日の考察はココまでとします。


nh01ai33 at 08:00
プロフィール
ブログ主:無責任野郎
職業:今、無職

参考にした文献の著者
およびチャンネル、ブログなど

≪チャンネル≫
 地上波テレビ
 チャンネルグランドストラテジー
 THE STANDARD JOURNAL2
   アメリカ通信
 チャンネル桜
 虎ノ門ニュース(DHCシアター)
 国際政治チャンネル

≪経済評論家≫
 三橋貴明 氏
 藤井聡 氏
 上念司 氏
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≪戦略家≫
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