豊臣秀吉

2018年11月17日

今回は、「日本列島は世界の雛型論」の第三回目となります。

今回の対比と類似考察は、「現代の米国」と「安土桃山時代の豊臣政権」の類似性の考察となります。

前回の「大英帝国が織田信長に似ている」の考察から、恐らくは今回の内容を見抜いていた人も居るのでは無いでしょうか?

ネット上でも、この手の世界の覇権国家を日本の戦国大名に見立て比較する考察は多々あります。実際ブログ主が見のモノの中には、「米国は徳川家康に似ている」みたいな考察を行っていた人も居ました。

最も当ブログでは、「アメリカ合衆国=豊臣秀吉」と位置付けていますので、人によっては受け付けない人も居るとは思いますが、あまり深い事は考えずに見て行ってください。

シリーズリンク:

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⑥「現代の米国」と「豊臣秀吉」
現代の米国が豊臣秀吉に似ていると述べましたが、大英帝国と織田信長の類似性の時とは違い、米国はユーラシアに領土を保有していないので、どの地域を支配しているのか?と疑問を抱く人も居るかもしれません。


米国は基本的に北米の中心部と一部諸島以外の領土を海外に用いていません。そのため実際豊臣秀吉と同じような地域を支配しているのかが分かり難いですが、これは実際の豊臣秀吉の支配地域と支配体制を見ればある程度理解できます。

豊臣秀吉は、土地の支配よりマネーと都市と通商の支配を確立させた支配者で、支配していた土地は「畿内を含む近畿地方の一部と全国に散らばる蔵入地」と「各地の金山銀山」と「ある程度の通商ルートや都市からの利益」で、土地の支配で上げられて利益(統一後の石高)は、徳川家を下回っていたと言うのは有名な事です。

これを現代の米国に重ね合わせたら、

土地の支配は「中東のエネルギー資源のドル売買の強要を軍事力を背景に行っている」ところが、様に秀吉の直轄領が畿内から中部地方西部を支配していたのに似ています。特にイスラエルの保護が、大阪の支配に類似しています。

各地の金山銀山の支配は、「各国からのマネー還流によるドルの買い支え」が真にソレに当たると思われます。

ある程度の通商ルートからの上がりは、正に「軍事力を持って"世界の海"と言う物流の大動脈を制御している」ところがソレに当たると考えられます。


他にも米国の豊臣政権の類似性が有り、それが同盟関係です。米国の最大の同盟勢力がヨーロッパ連合で、これが豊臣政権下で最初に同盟を結び下った大勢力である「毛利家」に相当すると考えれます。

織田信長と大英帝国の項では、毛利家はフランスに相当すると述べましたが、豊臣政権下での毛利家はヨーロッパ連合です。事実ヨーロッパ連合は、戦勝国のフランスがドイツとイギリスを引き込む形で成立させた勢力です。毛利家もヨーロッパ連合も独裁権力者によっての統治では無く、合議による統治である事も似ています。

f現代世界・戦国時代末期の日本



他の似ている点は、秀吉が全国に蔵入地(飛び地)を保有していた事も、米軍が世界中に軍事基地を保有し代わりに国債を買わせている事に似ています。

更に米国と豊臣秀吉は双方共に支配の仕方が、食糧などの土地から上がる生産には頼らず、むしろ人間の生産活動に付随する付加価値の支配を行う点が特に似ています。

米国は大英帝国の様な、過去の帝国主義国家の様に北米以外の土地を支配する様な事はせずに、統治そのものを現地の人達に任せ、ある程度の口出しに留めているところも、秀吉が部下たちに景気良く土地を分け与え自身の直轄領が少ないのと似ています。

この様に土地に頼らない支配方法と、その地域に投射する影響力の確保、影響を与えられている地域の類似性が、正に米国と豊臣秀吉が似ていると断じる理由と成っています。


★今の世界は、戦国時代で例えるとどの時期?
今まで提唱した、「日本列島は世界の大陸に似ている、そのため歴史さえもが似たような状況に成っている論」を見るに、最も気になるのが、現在の世界情勢は日本の歴史で言えば、どの時代に類似しているの?

と言う疑問が出てくると思います。

現在の世界情勢がブログ主の見るところ、これから待ち受けている世界のイベントは、日本史における下記の事件に相当する事件が、同時並列的に起こるか、起こっている最中であると見なせます。


「織田家の内紛が終了するか否か」
「紀伊攻略」

「小牧・長久手の戦い」

「賤ヶ岳の戦い」
「越中攻略」
「上杉の屈服」

「九州征伐」

「四国征伐」

「小田原征伐」
「奥州仕置」


・「織田家の内紛が終了するか否か」=「中東の混乱」
織田家の内紛とは、現在で言う中東東部の混乱で、かつて大英帝国の影響下にあった地域に存在しているサウジアラビアとイランの対立が、これに当たるのでは無いかと推察しています。


・「紀伊攻略」=「?」
世界史において日本史の紀伊の攻略に当たる事件は、今のところ起こっていない様に思えます。一応アラビア半島の紅海側にあるイエメンで起きている混乱が拡大すると言う形で興るかも知れませんが・・・

もしかしたらサウジアラビアが、日本史で言う奇襲攻めの敵勢力と成るかも知れません。この辺りは前述した「織田家の内紛=中東の混乱」とも重なりますので、どの国がどの勢力の役割を果たすのかが分かり難いです。


・「小牧・長久手の戦い」=「ベトナム戦争」
「小牧・長久手の戦い」は、秀吉が唯一負けた戦い徳川家康との戦いです。最も負けたと言っても野戦では勝てなかったと言うだけで、経済レベルでの締め上げや外交政策を含めた視点で見れば、必ずしも敗北と言えるものでは有りませんでした。

世界史における、これに類似する事件は、米国が覇権国家と成り初めて敗北した戦争であるベトナム戦争でしょう。とは言っても米国は敗北こそしましたが、戦争における敗北だけで、それで何が起こったかと言うと、ある程度の名声が落ちただけでそれで終了です。

ベトナムも勝利し完全な独立を確定させたと言っても、得たモノはそれだけで、何らかの利益を得れたかと言うと、何も得れていません。まさにその点が、豊臣秀吉と徳川家康の小牧・長久手の戦いに似ています。(ちなみに、この頃の徳川家康の勢力は、東海道を支配下に置いていました。世界における東海道に相当する地域がインド太平洋に当たると見なせば、勢力的にも重なります)


・「賤ヶ岳の戦い」と「越中攻略」と「上杉の屈服」=(対ソ連・ロシア)
恐らくは、豊臣秀吉が柴田勝家と戦った「賤ケ岳の戦い」と、佐々成政と戦った「越中攻略」そして、北陸に根を張る上杉家を屈服させた事に関しては、対ロシアの冷戦や現時点での圧力を伴った外交がソレに当たると思われます。

ブログ主の推測では、もしかしたら現時点で、既に米国とロシアの間である程度の妥協が成立している可能性が十分あります。実際トランプ政権の対ロシア外交が、その様なニュアンスが含まれた外交のように思えます。

・「九州征伐」と「四国征伐」=「アフリカとオーストラリア?」
正直なところ、これに関しては、自信が有りません。オーストラリア(四国)は基本的に安定していますし、軍事的にも他国に侵攻を受けるルートの有りませんので、紛争が起こるとは思えないからです。

またアフリカ大陸(九州)が混乱しているとは言え、日本史で言えば島津のような大勢力があるようには思えないため、こちらも大紛争に繋がるとは思えません。

双方共に日本の戦国時代であったような、大遠征の様な軍事行動が起こり得るかどうかが分かりません。

もしかしたらコレから何らかの経済的な事件が起こり、双方の地域に軍事的な行動を行わなければ成らない状況が来るのかもしれません。現状を見る限りではこれ以上自体が悪化するとは思えないので、判断は保留です。


・「小田原征伐」と「奥州仕置」=「対中国冷戦」
これは確定では有りませんが、恐らくは戦国時代を占める最後の戦いとなった、小田原征伐と奥州仕置きに相当するモノが、現在米中の間で始まった冷戦構造では無いかと推察できます。

中国自体が、すでに自国の事を自国だけで維持できない状況に追いやられてしまい、他国の生産力を当てしなければ生存できない状況に追いやられています。

そのため対外進出を行わざるを得ず、またインフレを抑える為にも自国で刷り過ぎた"元"を他国に使用を強要させなくては成らないため、軍事力とドル支配で自国の刷り過ぎた"ドル"が通貨暴落を起こさない様に国際決済通貨として他国に使用を促している米国と真っ向から対立してしまい、結果として冷戦構造を作らざるを得ないため、米中間の対立は避けられないと思われます。

この構造が、戦国時代の最後を締めくくる小田原征伐と同じ状況を、現在の世界で再現させてしまうモノと思われます。

なおこの場合、中国が満州を押さえている事が、戦国時代に北条氏と伊達氏が同盟を組んでいた事に相当する事例として解釈する事が出来ます。もしかしたら将来満州地域やそこに隣接する国家が、伊達政宗に相当する勢力になるのかもしれません。(最も伊達氏に相当する勢力が満洲であるかどうかは、まだ確定では有りません。実は朝鮮半島がソレだ言う可能性も有ります)


注意:もしかしたら将来この考え方を軸に、世界史で興った現在の事件が日本の戦国時代のどの事件に類似するかの考察した場合、すでに「織田家の内紛が終了するか否か」や「紀伊攻略」に類似する事象が終了していると見なされる可能性も有ります。ただ単にブログ主の認識不足なだけかもしれません。


★これからの世界予測は?
ブログ主も神様では有りませんので、今後の世界どうなるのかは分かりません。ですが現在の世界の動きや大国の生存戦略を軸に推察すれば、米中間の覇権競争が激化し、それによって世界が大きく動くと思われます。

当ブログで提示した、これら「日本の歴史と類似した流れで動く世界」を見た場合、今後どの様に国が動くのかを予測すれば、徳川家康に類似する勢力の台頭が予測できます。

徳川家康と言えば「海道一の弓取り!」、海道とは東海道を意味し、世界で日本の東海道に当たるのは、ASEANからインドや中東に至るインド太平洋地域がソレに当たると思われます。

そして現在、インド太平洋地域は、日米が対中外交を目的とした重要地域として位置づけられ、日本もインドとの外交関係強化と投資拡大をし始め、またASEANに対してもチャイナ+1の掛け声と共に投資拡大が行われています。

その様に考えれば、今後インド太平洋諸国が日米のカンフル剤を投入され、急激に台頭する可能性も有るのでは無いでしょうか?

今後ますます目が離せない世界情勢です。

★中国はどうなる?
正直申しますと、現在ブログ主は、中国が北条氏の立場を押し付けられた役者だと考えていますが、それはあくまでもブログ主の思い込みで、実は徳川家康の立場をすでに取得している可能性も有ります。

徳川家康も北条氏も最終的に関東に入り力を付け、徳川家康に至っては天下を治めています。

双方共に関東を制しており、世界史においてこの関東に当たる地域は、中国の中原を中心とする「古来から中国と言われていた領域」がソレに当たると思われます。

ブログ主が中国が徳川家康になれていないと言う理由は、海の道を制するのではなく、中央アジアへの陸の道を制してしまい、防衛負担の増大する陸上国境を持ってしまったが故に、現在の周辺国から受ける軍事負担を考慮した場合、北条氏の役を踊らざるを得ないと思ったからです。

そういう意味でも、ロシアが強大な陸軍を有している現状で、負担の掛かる現在の国境を持ってしまった中国は、運が悪かったと言えるのでは無いでしょうか?

無論立ち回り次第では、今からでも徳川家康役を務める可能性が有るかも知れません。注視して見て行くべきだと思われます。


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以上を持って「日本と世界の歴史の類似」の考察を終了しようと思います。

一応、今回の記事は、あくまでもブログ主が4年ほど前に自己での情報の収集と分析の結果、主観的価値観の下で認識しただけの事で、真実では無い可能性も有ります。それを前提の上で閲覧してください。

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2018年08月22日

本日は、「地政学で見る秀吉の朝鮮出兵と家康の朱印船貿易」と銘を打って、戦国時代が終わりかけていた頃の、日本の対大陸や周辺国に対しての地政学戦略に関して考察しようと思います。

時期は、豊臣秀吉が天下統一したころの話から、江戸時代の初期頃の範囲の日本の対外戦略と政策が対象範囲で、以前書いた「欧州諸国が帝国主義に変貌した時」の記事と若干重なりますし関係が有ります。


★秀吉の天下統一後とバテレン追放令
1590年頃、豊臣秀吉は応仁の乱から始まる、約100年続いた戦国時代に終止符を打ち天下を統一を果たしました。

その後、秀吉は間髪入れずに対外戦略に打って出ました。それが約六年に渡って繰り広げられた「文禄、慶長の役」です。

この文禄慶長の役を論ずるに当たり、多くの識者が、やはり多くの考察を提示しており、現時点でもコレと断定された結論は出ていません。

曰く、秀吉は織田信長の唐入りの遺志を継ぎ、天竺までをも征服するつもりだった。

曰く、秀吉はボケ始めており、日本中の大名がソレに巻き込まれてしまった。

最近では、スペイン、ポルトガルが日本に対して侵略の意思を見せていたため、対欧州諸国に対する威嚇として朝鮮に出兵した。

と言う考察も出てきています。


これに関してはブログ主は、ブログ主個人の見解としての朝鮮出兵の"理由(口実)"は、ヨーロッパ人の奴隷貿易が原因では無いかと考察しています。

戦国時代の九州地方では、キリスト教カトリック勢力が影響力を伸張させており、また九州の大名が外国から物資を得るための決済手段として自国民を奴隷として輸出をさせ、その犯罪行為を容認していた事が知られています。

秀吉は、九州に遠征を行った時に、これら奴隷貿易の状況を知り、バテレン追放令を発したと言われています。また日本人が奴隷として海外に輸出されていた事は、秀吉の前の実力者である信長が、欧州に使節団として送っていた者達も、帰国後にそれらの情報を伝えています。(バテレンが追放されて理由は他にもあるようで、信仰の強要や九州への領土伸張も理由の一つと考えられます)

そして重要な事は、奴隷貿易を禁止し、カトリックを禁教に指定して追放した後にも、これら奴隷貿易が行われていた様なのです。

無論これら奴隷貿易を禁止したからと言っても、しばらくの間は経済的な理由で黙認されていたようでは有ります。


※日本人を奴隷にした奴隷貿易を止める様に発布した覚書(天正十五年六月十八日付覚)は存在しており、その日にポルトガル側の責任者に手渡しているとのことです。


★バテレン追放と朝鮮出兵

奴隷貿易が行われていた事は有名ですが、その顧客として欧州だけでは無く「明朝、朝鮮、南蛮」も存在していたようです。そして秀吉が奴隷貿易を禁じたにも拘らず、それら奴隷貿易が行われ続けた事を考えれば、顧客であり、奴隷貿易の中継地となっていたと思われる朝鮮や中国が「犯罪行為を行う国家」、もしくは「犯罪行為を援助する国家」であると認識され、敵視されるのはやむを得ないと思われます

現代でも、自国民を拉致されたり奴隷扱いされ人身売買された場合、もし返還されない場合には戦争行為にまで発展させられても文句は言えません。これら行為(拉致と奴隷貿易)は現代の国際社会でも、慣習国際法的に犯罪で、戦争を吹っ掛けられても仕方の無い犯罪なのです。

現在韓国などでは、秀吉の文禄慶長の役で、朝鮮人技術者が日本人に拉致されたと、日本非難をしていますが、「"されたら嫌な事は相手に対して行うな"の慣習国際法」の観点から言えば、同じ拉致行為で報復されても文句は言えません。日本側としても、同じ事をやり返されたからからと言って文句を言われる筋合いも有りません。少なくとも朝鮮半島の人の認識では、悪い事では無いのですから・・・(彼らは自分達の事は棚に上げますので・・・)

その様に考えれば朝鮮出兵自体が、奴隷貿易の中継地を提供していた明朝への報復行為見なす事も出来ます。当時の李氏朝鮮は、明朝の将軍の興した明朝の一部とも解釈できる国ですので、同じく報復対象ともなります。

以上の事から朝鮮出兵に関しては、「道徳的な観点からも先に犯罪行為を行っていた諸外国の問題であり、日本の報復行為に問題があるわけでは無い」と言う口実が考察可能なのです。

※バテレン追放令のソースはウイキペディア


★朝鮮出兵による各関連勢力への影響
ココで朝鮮出兵で関係勢力がどの様な状況なったのかを確認してみようと思う。

関連勢力は、戦場となった「李氏朝鮮」、李氏朝鮮の宗主国である「明朝」、途中から明朝の同盟国として参戦した「女真族」、この三勢力を取り上げようと思います。(女真族は明国の同盟国としては参戦していませんでした。訂正します。2018-10-21)

①李氏朝鮮
まず戦場となった李氏朝鮮だが、文禄慶長の役で六年に渡り戦場となり続けた朝鮮半島ですが。当然各地で行われた戦争の影響で、疲弊し、援軍として来た明朝の軍を養わなければ成らなかった事も考慮した場合、国力の疲弊は避けられないと思われます。

朝鮮の軍の活躍としては、水軍が少なからず日本軍の補給を脅かした程度で、それ以外に目を見張る様な戦歴は積み上げれなかったようです。

②女真族
女真族とは、現在で言えば満州地方を勢力下においていた騎馬民族で、日本人には満州族と言った方がシックリ来るかもしれません。この女真族ですが、日本軍が朝鮮に来た時に、武将の加藤清正が一軍を率いて、現在で言う北朝鮮と中国北東部の国境あたりにいた女真族と小競り合いをしたためと、同時に明朝から援軍の要請があった為の、恐らく二つの理由により女真族の内部でも何かあり、対日戦に参加する事になったと思われます。ています。

明朝や李氏朝鮮の軍と轡を並べる事になったようですが、明朝や李氏朝鮮とは違い、この戦争で何か大きな損害があったとは記されては居ませんので、恐らくは損害も軽微だったと思われます。(ブログ主の想像です)(女真族は、明国や李氏朝鮮とは同盟は組んではいませんでした。申し訳ございません訂正いたします。2018-10-21)

③明朝
恐らく秀吉の朝鮮出兵で最大の被害を受けたのがこの中国の明朝だと思われます。明朝の参戦は、李氏朝鮮が明朝の将軍が建国した国家であった為と、宗主国として属国である李氏朝鮮を守らなければ、中華文明の盟主であると言う面目が立たなくなるための参戦であったと考えられます。

当時の明朝の軍が秀吉の日本軍をどの様に見ていたのかは分かりませんが、100年続いた戦国時代を生き抜き選抜きの戦闘集団と化していた日本の侍を相手にするには、内戦が有ったとは言え平和を謳歌していた明朝の軍には、かなり無理があったようで多くの被害が出た事が記されている様ですが、日本の侍が自分達の戦果を誇張しようとして述べた可能性も有るため詳しい事は、ブログ主には分かりません。(この辺りの誇張はどこの国でも行っている事なので、いちいち目くじらを立てる様な事でも無いと思えます)

そして明朝が最大の被害を受けた理由が、戦場での問題では無く、文禄慶長の役で生じた財政問題に関してなのです。

当時の明朝では、この秀吉の興した「文禄慶長の役」以外にも「ボハイの乱」と「楊応龍の乱」と言う合計三つの反乱や紛争を抱えており、これらを合わせて万暦の三征とも呼び、これが財政の破綻の原因と成り、明朝の経済的な崩壊から滅亡へ繋がったと言われています。

最も、文禄慶長の役に比べれば、それ以外の二つの反乱は、財政負担が無かったとは言わないが軽微で、文禄慶長の役は、他の二つの反乱で発生した財政負担を合計し、且つ倍化してもなお余り有る程の財政的な負担を強いたため、万暦の三征と言われる戦争の内、直接的に明朝の財政を破綻させたのは、秀吉の文禄慶長の役と言っても過言では無いと思われます。


★「明朝の疲弊」と「女真族の台頭」と南蛮勢力の変化

朝鮮出兵は明朝を衰退の道に追いやりました。そして疲弊したその隙を突いたかのように勢力を拡大したのが、相対的に巨大化し勢力を拡大させた北の騎馬民族である女真族です。後の清朝を建国するヌルハチが北部の草原地帯で力を付け、1616年に後金国を建国し、本格的に明朝との戦いに赴きます。

その結果は、多くの人が知る様に女真族が勝利し、清朝が中国の支配勢力となるのです。

ここで重要なのは、明朝と清朝が争ったと言う事自体では無く、その争いによって起こった中国大陸外の勢力の変化なのです。


重要なのは南蛮と言われる東南アジアです。元々この辺りは明朝が鄭和の南海遠征を行って以来、明朝の裏庭となっていた地域です。しかし文禄慶長の役の経済負担による疲弊でこれらの維持管理が不可能になったと考えられます。

同時に注意して考えなければ成らないのが、女真族の台頭で、彼らが北部で勢力を拡大し明朝と対立したため、軍事リソースを騎馬民族対応に費やさなければ成らず、南部の海洋地域を管理運営する事が出来なくなったのです。

古来より中国大陸のでは南から来る海賊(倭寇)と、北から来る騎馬民族の対応に頭を悩ませていた事が有り、文禄慶長の役で「海賊は何とかしたが、後の騎馬民族の来襲を防ぐことが出来なかった」と言う事になります。

そして中国の王朝が崩壊する時は、経済的疲弊だけでは無く、北方民族の侵入がおもな原因と成っている事は歴史が示しているのです。

「中国が疲弊すれば、北の騎馬民族が台頭する」と言う歴史から導き出せる地政学的な常識を当時の日本の権力者たちが知らなかったとは思えません。

更に言えば、明朝の後に建国された清朝は、騎馬民族の建国した国ですので、大陸国家としての側面が強く、周辺の騎馬民族を統合し陸路貿易による勢力拡大を行ったようで、海洋進出に関しては、あまり積極的では無かったようです。これに関してはモンゴルと同じですね。「海洋国家と大陸国家の双方を兼ねる事は出来ない」と言う地政学の原則にのっとった勢力拡大と言えます。


★関ケ原の政権交代と対外戦略

朝鮮出兵は諸外国だけでは無く、日本国内にも影響を与えました。朝鮮出兵により兵士を出していた西国大名が軒並み疲弊し、また論功行賞で間違った対応をしたため、豊臣政権の権威が大名間での信用を失墜させてしまいました。これら大名間の対立の事後処理に駆けずり回った家康が信頼を勝ち取りました。しかしその努力が、後の五大老間の対立を招き、関ケ原の戦いによる政権交代を招いてしまいました。

後に家康は、豊臣政権とは違う貿易を主とした対大陸外交政策を行い、明朝や朝鮮との関係を改善しようと努めました。

明朝に対しても薩摩が支配下に置いた琉球を表向き独立国家としての体裁を整えさせ、琉球を挟んだ間接貿易を行う事により貿易体制を確立させました。

そしてもう一つ重要な事として南蛮貿易で、明朝が北の騎馬民族に手間取っている間に、実質上の盟主の居なくなった東南アジアへの進出し貿易を拡大したのです。朱印船貿易はそれ以前から行われていた事ですが、この頃からより大々的に日本の商人や浪人たちが南蛮への進出しているのです。


これさ・・・

朝鮮出兵の本当の理由って、東南アジアの貿易圏を明朝から奪い取るためだよね!?


と言う様に、「東南アジア貿易権の奪取」と言う視点から見た場合、文禄慶長の役は、純粋な領土目的や懲罰目的ではない、勢力のバランシングとコントロールの意味が見えてくるのです。


文禄慶長の役、朱印船貿易
画像:朝鮮出兵と朱印船貿易

関連リンク
地政学基礎・コントロール&バックパッシング


★朝鮮出兵は海洋利権の確保のため?東南アジア貿易圏と海洋貿易の支配!

もともと明朝は、海禁政策(制限貿易や朝貢)を取っていたとは言え、東南アジア相手の海洋貿易で利益を得ていた国家です。鄭和の大遠征(中国商品の見本市)等を行い中国の文化がどれだけ素晴らしいかを誇張し、周辺諸国に朝貢を行わせる事によって中華文明の盟主としての面子を保たせました。

しかし、日本の朝鮮出兵により財政が破綻し、相対的に国力が低下した明朝にとって北の騎馬民族に対応しなくてはいけない状態に追い込まれました。南蛮の諸国を掣肘する国力が無くなったのです。しかも軍事リソースは北部の騎馬民族の対応に費やされています。

その様な明朝をしり目に、間髪入れずに東南アジアの貿易圏に進出し、一大勢力を築き上げたのが、我らが徳川JAPANなのです。

当時の日本は戦国時代の混乱が終わったばかりで、同時に"関ケ原の戦い"と"大坂の陣"の後でもあった為、養えない食い扶持を海外に送り、一旗あげつつ稼ぐ場所としては、南蛮貿易は絶好の地域だったと考えられます。

それだけでは成りません、当時の中国大陸は、明朝と後金国との間で戦争が始まっており、それら勢力に対して軍事物資を売りつける商売も莫大な利益をもたらしたと考えられます。特に日本は国内の紛争が終わりつつあり、武器の処分には困っていたと思われますし、刀鍛冶の稼ぎがいきなり減収しない様にする軍産援助の観点からも優れた対外政策であったと考えられます。

実際朱印船貿易の主な輸出品は、軍需品も多くあったと言われています。


★「鎖国政策から元禄バブルへ」と対欧州戦略

以上の対中国政策や対東南アジア政策を軸に、日本が戦国時代の終わりから江戸時代の初期頃に行っていた対アジア政策ですが、当然これらの政策は以前当ブログで書かせていただいた「欧州が帝国主義に変貌した時」の記事でも書かせていただいた通り、対欧州政策にも影響を及ぼしています。

関連リンク

実際この東南アジアの貿易圏支配を完成させた頃から、日本は少しずつ勢力を引くように、努力して手に入れた領土をオランダに譲り渡し、国内の繁栄で捻出したマネーさえもオランダ経由で欧州に輸出する行為を行っています。

結果としてバブル経済と崩壊により、欧州諸国が帝国主義を行わなければ成らない状況に成り、100年の月日を越えて日本に迫ってくるのですがから、一つの行為を行った後の影響と言うモノは馬鹿にできたものでは有りません。

最も、「それが本当にタダの偶然で日本に降りかかってきた事ならば?」ですが・・・


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今回これらの考察記事を書いた理由は、「現在の日本の識者と言われている人達が"地政学的なバランシングとコントロール"や"貿易や通貨政策による文化文明の繁栄や衰退"と言う観点から、朝鮮出兵を見ないのは何らかの情報統制が掛かっているように見えて仕方無い」と言う思いがあったからです。

今回の記事も見る人によっては、これらの考察に穴が有るかも知れません。興味に感じた人は、ご自身でも情報を集めて考察してみてはいかがでしょうか?

無論何度も言いますが当ブログで書かれている記事は、ブログ主の個人的見解にすぎませんので間違いや誤解が有るかも知れません。それらの事を考慮の上で閲覧してください。

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